昨日の夕方、家に一人でいるとチャイムがなった。いつもの通り「ナ~ウェイ(どちらさま)?」とたずねると返事なし。何度か声掛けしても答えないので、のぞき穴から見てみると人の気配。まだそこにいるってことは用があるってこと?しかも背がむちゃくちゃ小さいっぽい。(いざとなれば勝てるっ)と思ってドアを開けてみると、小さな姉妹が二人で立っていた。
以下、英語でやり取り。
「こんにちは。何かご用?」とたずねると、
「今日はハロウィンだからお金か何かください」と言ってきた。
ハロウィンてもう過ぎたよね、と思いつつ「どこの国からきたの?」と聞くと、
「パキスタン。パキスタンでは今日はハロウィンみたいな日なの」と言う。
そういえば、美国メリーランドのイスラエル人のお宅訪問を9月下旬にしたとき、「今日はユダヤ人の大晦日よ」といっていた。私の知らない祝日もたくさんあるのね、とパキスタン人姉妹を見ながら納得し、
「卵食べれる?」とさっき焼いたブラウニーをあげるつもりで確かめてみた。
「卵・・・?!」お姉ちゃんがけげんそうな声を出す。
「ハロウィンならお菓子でしょ?ブラウニーがあるの」と言いかけたら、
「No、お金か何かください」とはっきり言うから、バックに大人がいる新手のサギかなんかかという疑いがもたげてきた。
そういえば春節にお金を包む赤い封筒がどっかにあったなと思い出し、
「ちょっと待ってて。」というやいなや、
「中に入っていい?ネコと遊びたい!」とするするっと土足で入り込んできた。
封筒探しは時間がかかりそうだし、お金をあげるのはなんかいやだなぁ、そうだ、物置に日本を代表するプレゼントがあったぞ、と思い出した。
リビングのデスク(椅子じゃなく)の上にちゃっかり座っていた姉妹に、キティちゃんの定規やセロテープ、ノートや袋のセットを渡すと
「ありがとー。」と品定めの目つきでもまんざらでもなさそう。
「このシール、もう一枚ある?」「ダンボールの中身を見せて」と
廊下の端に置いたプレゼントのストックを物色し始めようとしたので、あわてて
「これは友達に上げるためにとってあるの。今日は特別にこれをあなたたちに選んであげたのよ。」といってなだめすかす。
最後に二人の名前を聞いて、こちらも教えて「またね」と出て行ってもらった。
まもなくチャイムが鳴ってまた二人が立っている。妹の手にはうちの廊下に転がっていた熊のぬいぐるみが・・・。
「これ、返しにきた」お姉ちゃんが熊を妹の手から取って私に返す。
「・・・。これはうちの猫たちが遊ぶものなの。よだれだらけなの。」
これから音楽会に出かけようと準備をしていたら、またしてもチャイムが。
姉妹が「ネコと遊んでいい?」
私「これから出かけなくちゃいけないから、また今度ね」
姉妹「かまわないわ。私たち、あなたの家でネコと遊んでいるから」
私「そ、それは・・・。やっぱりまた今度ね」
姉妹「じゃあ、猫たちを私たちの家に連れて行くから、あなたも出かけて大丈夫よ」
私「猫は外に出さないことにしてるの。今度私が家にいるときにいらっしゃいね、お願い。」
私が住んでいる棟の出入口付近では、パキスタンの人たちが民族衣装を着て裸足でいるのを見かける。女性の衣装がきれい、そして子だくさん、というのが受ける印象。しかし、知らない人の家のチャイムを鳴らして自分と違う文化の人に「お祭りだからお金ください」といえる純粋さというのに戸惑っている私。休日で無人の隣りのオフィスのチャイムも鳴らしまくっていたなぁ。うちの中はごちゃごちゃと物が散らばっていて、何かなくなってもすぐにはわからない状態だし。日本でも物騒な昨今、家の鍵は在宅中でも閉めないと不安だった。
でも一方で、戦後だかのやっぱり物騒だったかもしれない時代にあったエピソードで、家のチャイムが鳴って目の前に立っていた小汚いボロを着たひげ面の男性に、その家のおばさんがきちんとしたご飯を食べさせ、旦那さんの衣服をその男性に着させ、お金を持たせたっていうのが思い出されてね。そんな状況でも、人を疑わずに尊い行いができる人っているんだよね。
物は無限だっていう考えもよく言われるじゃない?おれが取るか、お前が取るか、という考えじゃなくて、あなたにも私にも十分いきわたるほどあるんだ、という考え方。先に取られちゃうじゃないかとか、なくす不安とかは実は不必要なんだって。
美味しいものとか便利なものとかを誰とでもシェアしたいなという気持ちは私にもあるけど。依存心とか期待の態度を植えつける関係もこれまで見てきたし。
はぁ。果たしてこの姉妹と自分に内在する課題とどう付き合っていけばよいものか・・・。とりあえず、家に私やらが2人以上いるときになら、姉妹が靴脱いでネコと遊んでもいいよってことにしようかな。
以下、英語でやり取り。
「こんにちは。何かご用?」とたずねると、
「今日はハロウィンだからお金か何かください」と言ってきた。
ハロウィンてもう過ぎたよね、と思いつつ「どこの国からきたの?」と聞くと、
「パキスタン。パキスタンでは今日はハロウィンみたいな日なの」と言う。
そういえば、美国メリーランドのイスラエル人のお宅訪問を9月下旬にしたとき、「今日はユダヤ人の大晦日よ」といっていた。私の知らない祝日もたくさんあるのね、とパキスタン人姉妹を見ながら納得し、
「卵食べれる?」とさっき焼いたブラウニーをあげるつもりで確かめてみた。
「卵・・・?!」お姉ちゃんがけげんそうな声を出す。
「ハロウィンならお菓子でしょ?ブラウニーがあるの」と言いかけたら、
「No、お金か何かください」とはっきり言うから、バックに大人がいる新手のサギかなんかかという疑いがもたげてきた。
そういえば春節にお金を包む赤い封筒がどっかにあったなと思い出し、
「ちょっと待ってて。」というやいなや、
「中に入っていい?ネコと遊びたい!」とするするっと土足で入り込んできた。
封筒探しは時間がかかりそうだし、お金をあげるのはなんかいやだなぁ、そうだ、物置に日本を代表するプレゼントがあったぞ、と思い出した。
リビングのデスク(椅子じゃなく)の上にちゃっかり座っていた姉妹に、キティちゃんの定規やセロテープ、ノートや袋のセットを渡すと
「ありがとー。」と品定めの目つきでもまんざらでもなさそう。
「このシール、もう一枚ある?」「ダンボールの中身を見せて」と
廊下の端に置いたプレゼントのストックを物色し始めようとしたので、あわてて
「これは友達に上げるためにとってあるの。今日は特別にこれをあなたたちに選んであげたのよ。」といってなだめすかす。
最後に二人の名前を聞いて、こちらも教えて「またね」と出て行ってもらった。
まもなくチャイムが鳴ってまた二人が立っている。妹の手にはうちの廊下に転がっていた熊のぬいぐるみが・・・。
「これ、返しにきた」お姉ちゃんが熊を妹の手から取って私に返す。
「・・・。これはうちの猫たちが遊ぶものなの。よだれだらけなの。」
これから音楽会に出かけようと準備をしていたら、またしてもチャイムが。
姉妹が「ネコと遊んでいい?」
私「これから出かけなくちゃいけないから、また今度ね」
姉妹「かまわないわ。私たち、あなたの家でネコと遊んでいるから」
私「そ、それは・・・。やっぱりまた今度ね」
姉妹「じゃあ、猫たちを私たちの家に連れて行くから、あなたも出かけて大丈夫よ」
私「猫は外に出さないことにしてるの。今度私が家にいるときにいらっしゃいね、お願い。」
私が住んでいる棟の出入口付近では、パキスタンの人たちが民族衣装を着て裸足でいるのを見かける。女性の衣装がきれい、そして子だくさん、というのが受ける印象。しかし、知らない人の家のチャイムを鳴らして自分と違う文化の人に「お祭りだからお金ください」といえる純粋さというのに戸惑っている私。休日で無人の隣りのオフィスのチャイムも鳴らしまくっていたなぁ。うちの中はごちゃごちゃと物が散らばっていて、何かなくなってもすぐにはわからない状態だし。日本でも物騒な昨今、家の鍵は在宅中でも閉めないと不安だった。
でも一方で、戦後だかのやっぱり物騒だったかもしれない時代にあったエピソードで、家のチャイムが鳴って目の前に立っていた小汚いボロを着たひげ面の男性に、その家のおばさんがきちんとしたご飯を食べさせ、旦那さんの衣服をその男性に着させ、お金を持たせたっていうのが思い出されてね。そんな状況でも、人を疑わずに尊い行いができる人っているんだよね。
物は無限だっていう考えもよく言われるじゃない?おれが取るか、お前が取るか、という考えじゃなくて、あなたにも私にも十分いきわたるほどあるんだ、という考え方。先に取られちゃうじゃないかとか、なくす不安とかは実は不必要なんだって。
美味しいものとか便利なものとかを誰とでもシェアしたいなという気持ちは私にもあるけど。依存心とか期待の態度を植えつける関係もこれまで見てきたし。
はぁ。果たしてこの姉妹と自分に内在する課題とどう付き合っていけばよいものか・・・。とりあえず、家に私やらが2人以上いるときになら、姉妹が靴脱いでネコと遊んでもいいよってことにしようかな。